ビジネスWi-Fiで会社改造(第44回)
ビジネスWi-Fiで"学び"が進化する
1603年に征夷大将軍の座に就き、260年の長きに及んだ徳川の世の礎を築いた徳川家康。家康には沈着冷静、忍耐といったイメージがありますが、その背景には失敗から学んだ経験がありました。
この「戦国武将の失敗学」シリーズの1回目で武田信玄、上杉謙信が後継問題に失敗したことについて詳しく触れましたが、家康が間近で見ていたのが豊臣秀吉のケースです。
秀吉は秀勝、鶴松という子をもうけたものの、いずれも幼くして亡くしており、その後は子供に恵まれませんでした。秀吉は1585年に関白となり、1590年には北条氏を倒して天下統一を果たしますが、この時点でも嫡子はおらず、後継者は不在のままでした。年齢が50代半ばに差し掛かっていたこともあり、1591年、秀吉はおいの秀次に関白の職を譲り、元号を文禄に改め、秀次の時代になったことをアピールします。
しかし1593年、秀吉にとっても思いがけないことだったかもしれませんが、側室・淀殿との間に秀頼が誕生します。いったんはおいの秀次を後継とした秀吉でしたが、秀頼が生まれた以上、実子である秀頼を後継にしたいと、気持ちが傾きます。もちろん秀次が素直に納得できる話ではありませんが、秀次は関白の職を解かれ、高野山で切腹するまでの事態となりました。いわゆる「秀次事件」です。
豊臣政権を揺るがすこの事件を沈静化するため、秀吉は諸大名を京都に集め、秀頼に忠誠を誓うように促しました。この中に、家康も入っています。しかし幼い秀頼にリーダーシップなど望めるはずもなく、1598年に秀吉が没すると家臣の分裂が明らかになり、豊臣の力は急速に衰えていきました。
このいきさつを見て後継問題が家の運命を左右することを実感していた家康は、自身の後継に慎重を期します。後継を定めないまま自分が健康を害したり、この世を去るようなことになると、いさかいが起こるのは明らかです。そこで、自分の目がまだ黒い1605年、三男の秀忠に将軍の座を譲りました。長男の信康は20年以上前に他界し、次男の秀康は結城の跡目を相続して結城性となっていたため、人選に関して大きな混乱はありませんでした。このとき秀忠は20代半ばで将軍職をこなせる年齢に十分達しており、かつ家康は自分の影響力を保持できる体制で、スムーズに権限移譲を行います。
家康は、自分の後継だけでなく、将軍職を譲った秀忠の後継にまで目を光らせていました。長男・長丸は早世していたため、秀忠の元には次男の家光、三男の忠長がいました。家光は体が弱く、性格も温和。忠長は健康で、利発です。また家光は乳母の春日局が育てていましたが、忠長は実母の江(ごう)が自ら育てていました。そうしたことから、秀忠と江は忠長が自分の後継にふさわしいと考えるようになります。
家康は秀忠と江の意向を知りますが、忠長が継ぐことになると混乱が生じる可能性が十分にありました。そこで家康は、家光が秀忠の跡を継ぐことを明確に伝え、家光に対して次期将軍として接するように求めました。1623年に将軍の宣下を受けた家光は諸制度を整え、江戸幕府の基礎を築く功績を残したのはご存じの通りです。
江戸幕府が260年にわたって続いた要因はいくつもありますが、そのひとつとして後継問題で家、政権が二分され、全面的に対決するようなシチュエーションを幕末まで招かなかったことが挙げられます。
その土台を作ったのは、秀吉の失敗を間近で見て、その重要性を強く認識していた家康の後継に関する手腕でした。
後継問題に関しては秀吉という他者の失敗を糧とした例でしたが、家康は自らの失敗ものちに活かしています。家康の生涯最大の敗戦となった、三方ヶ原の戦いです。
時の将軍・足利義昭と勢力を伸ばす信長が対立を深めると、義昭は各地の武将に働きかけ、信長包囲網を形成します。武田信玄もこれに加わり、京都に向かって西上を開始しました。
信玄は遠江国(現・静岡県)に入り、北方にある二俣城を攻め落としました。そして南下して家康の居城である浜松城に向かうと思いきや、西に向きを変えて浜松城を素通りしていきました。
信玄に侮辱されたと思ったのか、信玄が長男の信康が守る岡崎城に向かうのを阻止しようと考えたのか――。城内には籠城を主張する声がありましたが、家康は追撃を決断。三方ヶ原に向かいます。しかし、武田軍は「魚鱗の陣」の陣形を敷き、万全の態勢で待ち構えていました。家康の軍は、壊滅に近い形で敗走。家康は恐怖のあまり脱ぷんしたという逸話まで語られています。
この失敗の経験が、27年後の関ヶ原の戦いで活かされたと言われています。家康率いる東軍は西に向かって歩を進め、西軍の石田三成がこもる大垣城付近に陣を張りました。
前回も触れたように、城をめぐる攻防では孤立しない限り基本的に籠城側が有利。家康はすでに大坂城にいる西軍の毛利輝元に懐柔策を施していましたが、輝元が援軍に駆け付けないとは限りません。大垣城の三成と援軍の輝元に挟まれると、戦況は不利になります。
家康は大垣城に攻め込むことなくさらに西に進み、西軍を関ヶ原での野戦へと誘い、短期決戦に持ち込みます。そして、西軍の小早川秀秋の寝返りもあり、家康の思惑通り約6時間という短い戦闘で東軍は勝利を収めました。
大垣城の攻防に入っていたら、これほどの短時間で決着がつくことはなく、戦況はまったく変わった様相を見せたはずです。野戦に持ち込んで、一気にたたく。三方ヶ原で痛い目に遭ったその逆を、家康は関ヶ原でやってのけました。家康の慎重さの裏には、過去の失敗があったのです。
私たちは、ともすると成功事例のストーリーに目が行きがちです。もちろん、成功した事例から学べることは多くあるはずです。しかし局面によっては、成功することよりも失敗しないことの方が大切なことがあります。重大な局面での失敗は、致命的な結果をもたらす恐れがあります。
家康は、関ヶ原の戦いという日本の覇権を左右する極めて重要な局面で、過去の失敗から学び、勝利を収めることができました。また、秀吉の後継の失敗から学び、秀忠、家光と将軍の座をスムーズに移行することに成功しました。
家康の遺訓は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」の一節が有名ですが、そのあとに「勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる(勝つことばかり知って負けることを知らなかったら、害がその身に及ぶ)」という言葉があります。失敗から学ぶことが、すなわち成功への道につながることがある。この「失敗学」の重要性を、家康は見せてくれているのかもしれません。
【T】
戦国武将に学ぶ経営のヒント