戦国武将に学ぶ経営のヒント(第46回) 覇者、徳川家を離れた石川丈山の理想のリタイア

歴史・名言

公開日:2019.03.12

 長寿化が進み、人生100年ともいわれる時代になってきました。そうするとビジネスを卒業し、リタイアした後の時間も必然的に長くなっていきます。そこでテーマになってくるのが、第二の人生をいかに過ごすか。

今回は、戦国の覇者、徳川家を離れ、第二の人生を心豊かに過ごした武将・石川丈山(いしかわ じょうざん)を紹介します。

 丈山は1538年、三河国(現・愛知県)に生まれました。石川家は、代々徳川家に仕え、武勲の多い家柄です。母は本多家の出身で、徳川家康の知恵袋として知られ、本連載17回でも取り上げた本多佐渡守正信は叔父に当たります。丈山も少年時代から武人としての教育を受け、16歳の時に家康の近侍(きんじ)となります。以降、関ヶ原の戦いに加わるなど、家康のそばで戦歴を重ねました。

 しかし、1615年の大坂夏の陣が、丈山の人生を大きく変えることになりました。

武功の道から学問の道へ

 戦いの火蓋が切られ、家康率いる幕府軍が大坂城に迫ったとき、丈山は先陣を切って大坂城に乗り込みました。しかし、最後の攻城戦において無益な損害を避けるため、家康は直属の家来の一番乗りを禁止していたのです。

 幕府軍の勝利で戦いが終わった後、丈山は軍令を破ったということで閉居を命ぜられました。丈山はここで意を決して髪を切り、家康の元を離れて京都の妙心寺に入ります。一番乗りをとがめられたことが原因ではなく、実は丈山は戦いの前から隠退を決意していたといわれています。

 第二の人生を歩み始めた丈山が打ち込んだのは学問でした。旧知の仲だった林羅山の勧めにより、近世儒学の祖といわれる藤原惺窩(ふじわら せいか)に師事し、朱子学を学びます。文武に優れた丈山には仕官の話がいくつも舞い込みますが、学問の日々を選びました。

 その後一旦、病気の母を養うために浅野家に仕えましたが、その母の死を機に京都に戻ります。そして、一乗寺(左京区)と呼ばれる場所に、「凹凸窠(おうとつか/現・詩仙堂)」と名付けた居を構えました。現在、詩仙堂は京都の有名観光スポットになっていますから、訪れた方も多いのではないでしょうか。

学問の道から自然や環境を感じとる生き方へ

 丈山は、山の中腹の自然に恵まれたこの地をこよなく愛し、亡くなるまでの約30年間をここで過ごします。凹凸窠での丈山の暮らしは、悠々自適と呼ぶにふさわしいものでした。居宅の前に自ら木や花を植え、理想とする庭を造ります。元々獣から農作物を守るために畑などに置かれていた鹿おどしを初めて庭に用いたのも丈山です。

 丈山は、凹凸窠でのお気に入りの景色を「凹凸窠十二景色」としてまとめています。これを読むと、丈山が過ごした日々の一端をうかがうことができます。

 春には小道に散った桜を愛(め)で、秋には谷川のほとりの紅葉を楽しむ。夕方には眼下に広がる京の町に上がる夕飯の煙を眺め、夜は池に映る月を鑑賞する。丈山が何気ない日常の中に美や喜びを見いだしている様子が分かります。

人、もの、自然を混ぜ合わせたことで心豊かに

 また、京の町から程近いこの地で、丈山は人との交流も楽しみました。親友の林羅山を呼び、堂に肖像と詩を飾る36人の詩人は誰がいいか、議論を戦わせたというエピソードが残っています。

 リタイア後の人生を考えたとき、学問に打ち込み、自然を愛で、友人と交わりながら穏やかな晩年を過ごした丈山は、1つの理想を見せてくれているように思われます。

 有名戦国武将の最後は、戦に敗れて亡くなったケースだけでなく、織田信長や武田信玄のように志半ばで倒れたり、豊臣秀吉のように最後まで権力を手放さずに後に不安を残して亡くなったりとさまざまです。そんな中、心豊かにリタイア後の生活を送り、詩仙堂という後世に残る文化遺産を残した丈山の生き方は、非常に魅力的に感じます。

 ビジネスパーソンも現役のうちは業務に全力を尽くすのが当然です。しかし、人生100年時代、時には、長いリタイア後の生活を充実させる方法を考えることも大切です。

【T】

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