ビジネスWi-Fiで会社改造(第44回)
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戦国武将を経営者に見立て、その戦略を分析する本連載。豊臣秀吉の「秀吉株式会社」第5回は「大坂城」を取り上げます。
秀吉は墨俣一夜城、石垣山一夜城と非常に短期間で城を造った伝説を持っている人物ですが、大坂城は1583年から15年もの歳月をかけて造られた大城です。
現在、大阪城公園で見られる大阪城は徳川幕府が築いた大坂城の遺構を基にしたのもので、天守閣は1931年に建てられました。秀吉時代の遺構はほとんど残っていませんが、地元では「太閤はんのお城」として親しまれているように、元は秀吉の城です。
大坂城について触れるには、秀吉の前に遡る必要があります。大坂城の場所にはかつて、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の本山である石山本願寺がありました。浄土真宗は一向宗とも呼ばれ、信徒は強い団結力を持ち、各地の戦国大名としばしば対立しました。その本山である本願寺は大きな武力を持っていました。天下統一をめざす織田信長とも対立。戦(いくさ)に発展します。この石山合戦で九鬼水軍を味方に付けた信長は本願寺軍に勝利し、火の付いた石山本願寺は灰じんに帰しました。
信長は、この石山本願寺の地を自らの拠点にする考えを持っていました。理由は、その地の利です。石山本願寺の周りには淀川や大和川の分流があり、天然の要害となっていました。また、淀川を上ると京都につながり、下ると港町であり商業都市の堺にも近く、瀬戸内への水路も開けているという、交通の要衝(ようしょう)となる地でもありました。
しかし信長は1582年、本能寺の変で斃(たお)れます。池田恒興から土地の領有権を受け継いだ秀吉は、信長の安土城をモデルとしながらそれをしのぐ規模の巨城を構想。1583年から築城を開始し、本丸の工事だけでも1年半近い歳月をかけたといわれています。
総工期は15年。1598年に完成した大坂城は「三国無双の城」と呼ばれる壮大なものでした。大天守は外観5層で、瓦などに金がふんだんに使われていたといいます。内部も金銀の装飾にあふれ、秀吉の権勢を表すのに十分な城でした。
1598年に秀吉が没した後、1614~15年の大坂冬の陣、夏の陣で豊臣側が敗北。大坂城は徳川幕府の手に渡ります。そして秀吉時代の面影を残さない形で徳川秀忠が大坂城を修築し、大坂城は新たな時代に入りました。
秀吉は大坂城の完成とほぼ時を同じくして亡くなったため、大坂城にいた時間は長くありません。しかし「秀吉株式会社」にとって、大坂城は新本社ビル兼ショールームのような重要な意味を持つものでした。
秀吉が大坂城の建造に取り掛かったのは、信長が本能寺の変で斃(たお)れた翌年のこと。信長の後を継ぎ、天下を統べるための拠点として大坂城を構想しました。天下の政(まつりごと)を行うには、かつて本邸とした聚楽第も、居城としていた伏見城も物足りず、壮大な新本社ビルを必要としたのです。
秀吉は大坂城に幾人もの客を招き、その壮麗さを誇りました。大坂城の「秀吉株式会社」のショールームとしての側面です。
また、規模に加えて重要なのが立地です。現代の企業でも、ビジネス拠点をどこに置くかというロケーションが重要な意味を持っています。信長が目を付けたように、この場所は日本の中心となりうる場所でした。その証拠に、徳川家康が江戸に幕府を開いて後も、経済の中心「天下の台所」としての地位を守り続けます。
現在でも世界に各時代の支配者が残した城郭が残り、その壮麗さを競っています。また企業も、時には奇抜な、時には壮大な本社ビルを建設するケースが見られます。やはり、大衆は分かりやすいシンボルを通して、その権力や信頼性を測るものです。「最高の立地に他にはない建物を持つ」ことは力の象徴であり、だからこそ大衆は信頼します。秀吉もそれが分かっていたからこそ、長い時間をかけて大阪城を造ったのでしょう。逆にそれがあるからこそ、徳川家は秀吉の大阪城を壊し、建て替えたのだと見ることができます。
「立派な本社ビルを建てたらその企業は危ない」といった格言を聞いたことがあるかもしれません。確かに、金を生まない間接部門がいるだけの本社であれば、工場や店舗といった現場に金をかけるべきだという意見にはうなずけます。それでも、時にシンボルとしての本社ビルがその企業の信頼性の証しとして求められることもあるでしょう。それだけでなく、その企業全体をコントロールする大事な“頭脳”の器として本社ビルを生かすことが経営者の能力ではないでしょうか。
【T】
戦国武将に学ぶ経営のヒント