戦国武将に学ぶ経営のヒント(第21回) 鍛えてもらうことができなかった豊臣秀頼の悲劇

歴史・名言

公開日:2017.02.21

 2016年に好評の中で最終回を迎えたNHK大河ドラマ「真田丸」は、真田信繁(幸村)の生涯を描いて人気を博しました。そのクライマックスの舞台である大坂城――その城主が悲劇の天下人、豊臣秀頼(1593~1615)です。

 秀頼は謎の部分が少なくない人物です。その出生に関しても、公には秀吉とその側室・淀殿の子ということになっていますが、本当の父親が別にいるという説があります。

 実子だったかどうかはともかく、秀吉は秀頼を溺愛したようです。秀吉のおいにあたる関白・秀次が切腹することになったのも、スムーズに秀頼に天下を譲りたい秀吉の意向があったともいわれています。

 秀吉は、五大老・五奉行などの職制を導入し、自分の死後、幼い秀頼を補佐する体制を整えました。この五大老の筆頭となった徳川家康が、豊臣家を支えるのではなく、大坂の陣で秀頼を討つことになるのは歴史の皮肉でしょう。1598年に秀吉が伏見城で没すると、豊臣家の家督を幼い秀頼が継ぎました。

自らの意志が見えない秀頼の生涯

 秀吉亡き後、対立を深めていった諸大名は二派に分裂。家康率いる東軍と、石田三成がまとめた西軍が、関ヶ原で雌雄を決することになりました。両軍とも「豊臣家のため」を大義としていたこともあり秀頼は、大坂城でこの戦いを見守ります。

 関ヶ原の戦いは、表向き豊臣家の家臣同士の争いですから、勝者である家康を秀頼は「忠義者」として称賛することになります。しかし、その後、家康は豊臣家の力をそいでいきます。220万石あった豊臣家の所領のうち、各地の大名に管理を委託していた領地を取り上げ、65万石にまで減らしたようです。

 そして1603年、家康は征夷大将軍となります。これにより徳川家が武家の頂点に立つのですが、秀頼を当主とする豊臣家も依然として勢威を保っていました。摂関家の豊臣家は、徳川家より朝廷における位格は上です。若き秀頼の元には、公家や大名が挨拶に訪れます。

 この時点で、豊臣家ではいずれ天下は自分たちに返されると考えていたともいわれています。そんな甘い期待は、1605年、徳川秀忠が征夷大将軍の地位を家康から引き継いだことで打ち砕かれました。ここから、豊臣家と徳川家の対立は避けられないものとなっていきます。

 1605年、秀頼が右大臣に昇進すると、家康から京都での会見を持ちかけられました。しかし、呼び出しに応じることが家康への服従を意味すると考えた母親の淀殿はこれを拒否します。

 その後、1611年に再び家康から面会を求められました。この時も秀頼の身の危険を感じた淀殿はまたも反対しますが、秀頼は加藤清正らを護衛に付けて上洛。二条城で家康と会見しました。この時、身長が190センチあった秀頼の堂々たる体躯と人物ぶりに家康が畏れを抱き、豊臣家滅亡を決意したといわれています。

 そして1614年、方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂冬の陣が始まります。豊臣家の忠臣である大野治長らは、籠城戦を主張。一方、真田信繁らは野戦を要求しました。豊臣家の当主である秀頼は20歳を超えていましたが、実戦経験もなく、リーダーシップを発揮できません。

 結局、徳川軍の砲弾に恐れをなした淀殿が和議を主張。この声が通り、大坂城の堀を埋めることなどを条件に徳川側と講和します。ちなみに、豊臣側が条件として出したことの1つが、秀頼の身の安全を約束することでした。

 翌年の大坂夏の陣でも、真田信繁らの活躍により豊臣軍は善戦しますが、兵力に勝る徳川軍に追い詰められていきます。豊臣軍の総大将である秀頼は、最後まで出陣することがありませんでした。これも淀殿の懇願によるものといわれています。徳川軍に完全に包囲された秀頼は、淀殿、大野治長とともに自害。20歳を少し超えただけで生涯を終えました。

同じ20歳の頃、信長、家康、秀忠は?

 秀頼は、天下を取った秀吉の後を継ぐ若き二代目でした。しかし、まだ10歳にもなっていなかった関ヶ原の戦いの時はともかく、20歳を過ぎていた大坂の陣に至っても己の意志やリーダーシップを見せることなく、母・淀殿ばかりが目立つことになりました。

 現在における20歳は、まだ大学生で親の収入の下で暮らすケースも多いでしょう。しかし戦国時代といえば10代半ばで元服。つまり一人前と見なされていました。実は、秀頼は箔を付ける意味もあったのか、秀吉が死ぬ前の1596年に元服を済ませています。

 秀吉は、平民から成り上がったため特殊なケースですが、織田信長、徳川家康はともに20歳頃には、家督を継ぎ、リーダーシップを発揮し始めています。信長は、兄弟、親戚と尾張の支配をめぐり骨肉の争いを繰り広げ、家康は桶狭間の合戦の後、信長と同盟を結んでいます。

 同じ二代目である徳川秀忠(1579~1632)とも比較してみましょう。秀忠が征夷大将軍になったのは1605年ですが、そのはるか以前から秀忠は実績を積み上げています。

 12歳、13歳の頃には家康が離れた時に江戸を預かり、町づくりを進めたといいます。20歳の頃には関ヶ原の戦いに臨みました。東海道を進む家康本体に対して、中山道を進む別動隊を率いる重責を与えられたのです。この役目が失敗に終わったことは大河ドラマ・真田丸で描かれた通りですが、別の見方をすれば、すでに部隊を率いる役割を任せられており、自ら判断できるリーダーとして家康に認められていたということです。

 将軍になると、秀忠は公家諸法度・武家諸法度を制定し、また大名の改易を進めるなど、江戸幕府の基盤となる実績を残しています。こうした秀忠の実像は本連載第12回「ダメな2代目は誤り。本当はスゴい徳川秀忠の真価」をご覧ください。

リーダーは鍛え、任せることで成長する

 秀頼と秀忠を分けたもの――それは周囲の教育の違いではないでしょうか。家康は秀忠を後継として見込み、教育を行っていたフシがあります。例えば、14歳の時に徳川家重臣・大久保忠隣を秀忠付きの家老にしています。忠隣は三方ヶ原の戦いなどで功績を立てるとともに、甲斐などの領国経営にも力を発揮した人物です。秀忠が忠隣から多くを学んだことは想像に難くありません。

 一方、秀頼にはこのような教育を受けた形跡が見当たりません。幼い時に父・秀吉を亡くしたことは大きなことだったでしょうが、秀頼が家督を継いだ後、厳しく鍛え帝王学を教え込むような存在は見当たりません。さらに、母・淀殿は院政を敷くような形で最後まで秀頼の意思を尊重することはなかったようです。その結果が、心中するような形での悲劇的な最期です。

 家康と二条城で会見した時のエピソードからすると、秀頼も一定の資質を備えていた人物だったと思われます。しかし、秀頼が己の意志で家臣をけん引するリーダーシップを発揮することはありませんでした。

 企業においても、創業社長の子息が二代目を継ぐ場合があります。そうした事業承継がうまく行かない原因の1つには、準備不足があるのではないでしょうか。リーダーが自然に育つのはまれなケースです。先代も含めた周囲が甘やかすことなく鍛え、任せ、時には失敗も経験させることが必要です。持っていたかもしれない武将としての素質を開花させることがなく散った秀頼の悲劇を振り返ったとき、受け継ぐ者を鍛える先代や周囲の行動の大切さを改めて感じます。

【T】

あわせて読みたい記事

  • 戦国武将に学ぶ経営のヒント(第101回)

    世に優れたる利発人・蒲生氏郷が目指した「偏らない組織」

    歴史・名言

    2025.02.05

  • 戦国武将に学ぶ経営のヒント(第100回)

    天下人に重宝され一財を築いた「塩飽水軍」の実力

    歴史・名言

    2024.10.24

  • 戦国武将に学ぶ経営のヒント(第99回)

    知将・黒田官兵衛の「状況に応じて戦略を立てる力」

    歴史・名言

    2024.07.23

連載バックナンバー

戦国武将に学ぶ経営のヒント