戦国武将に学ぶ経営のヒント(第3回) 謀(はかりごと)で中国地方を制した武将の継承策

歴史・名言

公開日:2015.08.11

 毛利元就(もうり・もとなり、1497~1571年)は戦国時代に中国地方のほぼ全域を支配した武将です。NHKの大河ドラマにもなりましたからご存じの方が多いと思います。なんといっても有名なのは、跡をつぐ3兄弟の和を説いた「3本の矢」の逸話です。

 このエピソードから連想する元就のイメージは、和を大切にする人格者です。しかし実は、元就の得意は「謀(はかりごと、謀略)」でした。「謀神」「諜将」と評されるほどです。「謀」とは簡単に言うと、敵をだますこと。“だます”などと言うと、何だか卑怯なやり方のように思われます。

 しかし、生死をかけた争いを繰り広げている戦国時代の「謀」は、いわば頭脳です。戦場で実際に戦いをするのと同じくらい、あるいはそれよりも重要なのが「謀」なのです。戦国時代、謀略は最高の戦術の一つでした。元就はこの「謀」を縦横無尽に使いこなしたのです。

 安芸(現在の広島県西部)の小さな国人領主からスタートした元就は、山陽・山陰を含めた中国地方の10カ国を支配するまでになっています。その過程では武力も効果を上げましたが、謀略こそが領土拡大のポイントでした。

 例えば、主家である大内氏を倒した陶晴賢(すえ・はるかた)を攻略する際には、実際に戦う前に、その重臣を懐柔して内部から力を削いでいます。元就の実力を天下に知らしめた厳島の戦いでは、厳島が攻められたら毛利は負けるという偽の情報を流し、陶軍を厳島に誘い出して撃滅しています。

 戦わずして勝利するという意味で、元就は養子縁組や婚戚をも効果的に活用しました。これらも一種の「謀」といえます。その端的な例が、山陽に拠を構える水軍の家柄の小早川家に三男・隆景を、山岳戦に優れた山陰の吉川家に次男・元春をそれぞれ養子という名目で送り込んだことです。これによって、長男・隆元が継いだ本家の毛利に、小早川・吉川を加えた3家による強固な協力体制を築き上げました。

内部の和を固めて、謀略を受け付けない体制に

 元就は天下を取ることなく亡くなります。その病床で隆元、元春、隆景という3人の息子たちを呼び、遺言したとされるのが有名な「3本の矢」の逸話です。元就の言葉としてこう伝えられています。

 「この矢1本なれば、最も折りやすし。しかれども1つに束(たば)ぬれば、折り難し。汝(なんじ)ら、これに鑑(かんが)みて、一和同心すべし。必ずそむくなかれ」

 死期を悟った父親が息子たちに対して、どうか協力してこの家を存続・繁栄させていってほしい、との願いが込められた言葉です。「謀」の天才だった元就は、内部のゴタゴタの怖さをよく知っていたはずです。自分の死後、外部の「謀」につけいれられるスキをつくらないように内部の和を強化することを求めたのではないでしょうか。

 事業承継は企業にとっても大きな課題です。しかし、いわゆる兄弟経営の成功率は約20パーセントともいわれています。親が経営から引退。長男を社長にすえ、次男を副社長、三男が専務にしたところ、仲たがいして業績が悪化し、揚げ句の果てに倒産したというケースも珍しくはありません。

 元就がうまかったのは、次男、三男を小早川、吉川という別の家の当主につけたことです。現代でいえば、次男、三男をそれぞれ関連会社の社長にしたという形でしょうか。製造会社と販売会社を任せたり、複数の事業を手掛けたりしているならカンパニー制を採用して任せるパターンにもなります。

 元就の死後、毛利家は関ヶ原の合戦の西軍総大将となり敗れるなど、大きな波乱を経験しましたが、なんとか存続に成功しました。その後、明治維新では藩主を務めた長州藩が大きな役割を果たしました。元就の願い通り、一族の固い結束が、これらの原動力となったのは間違いありません。

【T】

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