ビジネスWi-Fiで会社改造(第44回)
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1月から、NHKの大河ドラマ「どうする家康」が始まりました。主人公は、タイトルにある通り徳川家康。松本潤さん演じる家康が、人生で出会う折々の事件、出来事の中でどのような判断をしたのかを中心に、話が進んでいきます。
2月19日に放送された第7回「わしの家」で取り上げられたのは、地元の三河(現・愛知県東部)で起きた一向一揆。家康の三大危機の一つにも数えられているこの出来事で、家康はどのような判断をしたのでしょう。
1542年※に生まれた家康は、幼少の頃から駿河国(現・静岡県中部)、遠江国(現・静岡県西部)、三河国を治める有力大名・今川氏の保護下にありました。しかし、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、これを契機に今川氏から独立。三河で勢力を伸ばしていきます。
そして1562年、西の織田信長と軍事同盟である清洲同盟を結び、三河の統一を目指しました。しかし翌1563年、三河で浄土真宗の一派である一向宗の門徒が反乱を起こし、一揆に発展します。
一向一揆が起きた原因については、いくつかの説があります。その頃、寺院には課税や領地への外部権力の立ち入りを拒否できる不入権が認められていました。三河にある本證寺に無法者が侵入した際、家康の家臣が寺内に入って捕縛しましたが、これが不入権の侵害にあたるとして本證寺側が反発。一揆になったというのがその一つです。また、同じく三河にある上宮寺に家康の家臣が入り、兵糧を奪ったことがきっかけだったという説もあります。
背景として考えられるのは、家康は戦続きで兵糧を必要としており、三河の寺院からの年貢徴収を考えていたと思われる節があること。また当時、寺院が水運や商業に大きな力を持っており、三河を支配したい家康と潜在的な対立関係にあったことが挙げられます。
寺院側の反発に対して家康が強硬な姿勢を見せたため、さらに反発は激しくなりました。そして、上宮寺、本證寺、勝鬘寺の三寺に門徒が集結。国人や農民らもこれに加わり、武力衝突が避けられない情勢となりました。
家康にとって誤算だったのは、家臣から一揆側に付く者が続出したこと。その頃、一向宗は三河に多くの門徒を持っており、その中には渡辺守綱、蜂屋貞次、本多正信・正重など、家康の家臣が少なからずいたのです。こうした勢力だけでなく家康に反感を持っていた国衆などが加わり、家康側と相対しました。
衝突がいくつかあったあと、年が明け1564年になると戦いが本格化。大久保忠勝・忠世が守る上和田のとりでに一揆衆が攻め入った上和田の戦いでは、家康が自ら出陣し、被弾するなど、激しい戦闘が繰り広げられました。
しかし、一揆側は門徒、家康の家臣、国人、農民らが入り交じった成軍で、家康のように全体を統率する強力なリーダーがおらず、まとまりきれません。また、一揆側に付いた家康の家臣も、家康に対する忠誠と信仰の間で揺れ動き、家康が出陣するようになると勢いが鈍ります。
次第に家康側が優勢になり、同年2月、一揆勢は家康に和議を提案しました。主な条件は、「一揆を企てた者、加わった者の命を保障する」「寺院については(不入権を持った)以前と同じ状態にする」の二つです。家康はこれを受け入れ、一揆は解散しました。しかし、話はこれで終わらなかったのです。
家康は、一揆の主な舞台となった寺院に改宗を迫りました。寺院側が「以前と同じようにすると言ったではないか」と反発すると、家康は「寺が建つ以前は野原であった」と言い放ち、寺院や道場を破却。一向宗は三河での活動を約20年間禁じられてしまいます。
さて、寺院には非常に厳しく対処した家康ですが、自らを裏切る形で一揆側に付いた家臣にはどのような処分を下したのでしょうか。斬首のような厳しい刑を処することも可能でした。しかし命を取るようなことはせず、基本的に帰参を許し、寛大な処置を取りました。渡辺守綱、蜂屋貞次、夏目吉信らは、みな家康の下に帰参しています。
彼らはその後、再び家康の家臣となり、大いに活躍しました。渡辺守綱は姉川の戦い、三方ケ原の戦い、長篠の戦いなど家康の主要な戦いに参加し、数々の戦功をあげ、徳川十六神将の一人に数えられるほどになりました。蜂屋貞次は、家康の吉田城攻めに参加して命を落としますが、その功績が評価され、やはり徳川十六神将の一人となっています。夏目吉信は家康の大敗北となった三方ケ原の戦いで奮戦し、家康の退却を助けています。
同じく一揆側に付いた本多正信は出奔して加賀に行きますが、のちに大久保忠世のとりなしにより帰参。江戸幕府の成立においても大きな役割を果たすなど、終生家康に仕えました。
家康は、一揆を主導した寺院側には冷酷ともいえる処分を下しています。もちろん、ある宗教の宗派を弾圧することは、現代では許されないことです。
しかし、それまでにも加賀や越中で一向一揆が起きており、越前朝倉氏や上杉謙信らが対応に苦慮していました。その後も、信長が石山合戦で一揆衆と長きにわたって戦いを繰り広げます。敵対する者に断固たる処分を取るという意味では、家康の判断は注目に値します。
一揆を鎮めた家康は勢いを増し、今川方の勢力を退けてわずか4カ月で東三河を平定し、三河統一を果たしました。
一方、自らを裏切る形で一揆側に付いた家臣については、厳しい刑に処することなく帰参を許し、寛大な処置を取りました。家康を一度裏切った家臣は、家康に対して負い目を感じていたことは想像に難くありません。また、帰参を許されたことに感謝の念を持っていたであろうことも確かでしょう。その家臣たちは、その後、家康を強く支えることになりました。
何に厳しく当たり、何を寛大に見るべきなのか。この家康の判断、智(ち)の巡らせ方には、現代の私たちも学ぶべきことがあるように思われます。
※1543年生まれとする説もありますが、本稿ではNHK大河ドラマ「どうする家康」の設定に合わせて1542年生まれとしております
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