アスリートに学ぶビジネス成功への軌跡(第42回) 野茂英雄、イチローを育てたパ・リーグの名将 仰木彬

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公開日:2021.12.14

 2021年のプロ野球日本シリーズの熱戦は、師走が迫り、肌寒い風が吹く日本列島を大いに温めてくれた。対戦したのは、共に前年度は最下位だったセ・リーグの東京ヤクルトスワローズとパ・リーグのオリックス・バファローズだ。

 このヤクルト対オリックスという組み合わせが、あのつらく、寒かった冬、そしてその年のオリックス・ブルーウェーブ(当時)の活躍を思い起こさせる。

 1995年1月17日、淡路、阪神地区を未曽有の震災が襲った。阪神・淡路大震災である。

 神戸に本拠地を置くオリックスは、地元での開催が危ぶまれるような状況だったが、神戸開催にこだわり、オープン戦から神戸で戦った。4月1日に行われたグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)開幕戦には3万人の観客が詰めかけた。

 そして大きな声援を受けながらプレーする選手のユニホームの右袖には「がんばろうKOBE」の文字があった。そのメッセージに励まされた人がどれだけいたことだろう。

 オリックスは、その多くの人たちの気持ちに応えるように、ペナントレースを勝ち抜き、チームとして初のリーグ優勝を果たし、日本シリーズへと駒を進めるのである。

 そのオリックスを率いたのが、熱き名将、仰木彬監督だった。リーグ優勝した時の気持ちを、仰木さんは次のように振り返っている。

「ただ優勝を目指すといった当たり前のことではなく、震災で傷ついた地元・神戸を盛り立てようという特別な思いで団結し、見事にリーグ優勝を果たしたこの年のオリックスの戦いぶりと、その選手たちを、私は心から誇らしく思います」
(勝てるには理由(わけ)がある。仰木彬著)

 神戸市民をはじめ、多くの人たちもまた、あの年の仰木オリックスを誇らしく思ったことだろう。

緻密さと大胆さを背景とした仰木マジック

 福岡出身の仰木彬さんは、投手、四番打者として出場した夏の甲子園大会での活躍がプロの目に留まり、地元の球団である西鉄ライオンズに入団した。投手として入団したが、すぐに二塁手にコンバートされ、打者として1956年からの3年連続日本一に貢献し、チームの黄金期を支えた。

 現役引退後は、西鉄ライオンズのコーチを皮切りに、近鉄バファローズ、オリックス・ブルーウェーブでコーチ、監督を歴任し、「仰木マジック」と評されたセオリーにとらわれない奔放な采配でファンを魅了した。代表的なのが、相手チームの投手陣の顔ぶれ、打順、対戦成績など膨大なデータを精査したうえで打線を猫の目のようにクルクル変える「猫の目打線」だろう。

 また選手一人ひとりのキャラクターを尊重した人心掌握術にもたけていて、選手に「この人を勝たせたい」と思わせる監督だったという。そのようなマインドをモチベーションにした代表格が、日本初のメジャーリーガーとなった野茂英雄さん、そしてイチローさんだろう。

イチロー選手のメジャー移籍願いを快諾

 アマチュア時代にソウル五輪の代表として銀メダル獲得に貢献した野茂英雄投手は、1989年のドラフトで史上最多の8球団から1位指名を受けた。ドラフト当日、最後にくじを引き、野茂投手を近鉄バファローズに獲得させたのが仰木監督だ。

 野茂投手が入団に際して提示した条件の1つが、試行錯誤を繰り返して完成させた投球フォームをいじらないこと。仰木監督はその条件を快諾し、入団後の調整もすべて野茂投手に任せた。日本中が注目するルーキーに対するその勇気あるマネジメントが、後にトルネード投法でメジャーを席巻する野茂投手の土台を作ったといえるのではないだろうか。

 一方のイチロー選手は、仰木さんがオリックスの監督に就任した1994年当時は1軍、2軍を行ったり来たりしているような状況だった。しかしイチロー選手の資質をいち早く認めた仰木監督は就任直後の春季キャンプでイチロー選手に次のように言った。

「1年間、何があっても使い続ける」こう約束すると、イチローは「よし‼」という顔で目をキラキラさせたものです。
(同著より)

 水を得たように活躍し始めた彼を「イチロー」という名前で選手登録し、新たなプロ野球のスターとして日本中に認知されるようになるきっかけを作ったのも仰木監督だった。

 そして名実共にオリックスの主軸となったイチロー選手は、次のステージとしてメジャー入りを希望するようになる。2000年のシーズン中にイチロー選手は、神戸のいきつけの店に仰木監督を招いてメジャー移籍を願い出たという。

「“ダメ元”だったんですよ、実は。ダメって言われると思ってたら『おう、行って来いよ』って。まさかの一言でしたね。『あざーっす』って(笑)」
(デイリー「イチローが語る仰木監督」より)

 おう、行って来いよ。チームの主力選手が抜けるというのに。なんという豪胆さ、そしてなんという選手思いなんだろう。

 大事に育てた人材が、違う部署、別会社への異動を希望する。戦力が欠けるのは大きな痛手だが、仰木監督のように背中を押してあげれば、その人材との良好な関係は続く。それが新たなビジネスチャンスにつながる可能性もある。また他のメンバーもその温かい処遇を目の当たりにすれば、職場の士気の向上につながるケースも多いだろう。マネジメントに携わる方は参考にできるエピソードではないだろか。

 仰木さんが亡くなられて16年もたつのか。惜しくもオリックスが4勝2敗で日本一の座を逃した2021年の日本シリーズをどうご覧になっていたんだろう。

 「野球は勝ったり負けたりや。だから、次は勝てるで」と、あの笑顔でそんなことを言っておられるような気がする。

 そう、震災の年、オリックスは4勝1敗でヤクルトに惜敗したが、翌年はジャイアンツを下し、見事、日本一の座に輝いたのだった。

執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)

ライター。

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