アスリートに学ぶビジネス成功への軌跡(第13回) 車いすテニス 国枝慎吾、王者陥落後に見せた真価

人材活用

公開日:2019.07.25

 それは錦織圭選手が世界のテニス界で活躍を始める前のことだった。

 ある日本の記者が、インタビューの中でテニス界のトップに君臨していたロジャー・フェデラー選手に「なぜ、日本のテニス界には世界的な選手が出てこないのか」と質問した。

 するとフェデラー選手は「何を言っているんだ君は?日本には国枝慎吾がいるじゃないか」と返したとされる。国枝選手は2000年代前半から、車いすテニスで世界を舞台に目覚ましい活躍を見せていた。

 車いすテニスとは車いすに乗って行う障がい者スポーツの1つ。2バウンドでの返球が認められている以外、ルールはテニスと変わらない。1988年のソウルパラリンピックで公開競技となり、1992年のバルセロナパラリンピックから正式競技として行われている。2000年代、テニスの4大大会(グランドスラム)に車いすテニス部門が相次いで創設され、それぞれ大会の開催期間中に同一会場で公式に試合が行われるようになった。

 フェデラー選手が同じテニスプレーヤーとして車いすテニスの国枝選手を意識し、尊敬の念を抱いていることは別のインタビューで話した内容からもうかがえる。

 2007年、フェデラー選手がウィンブルドン選手権で5連覇を成し遂げた際、年間グランドスラムをいつ実現できると思うかという質問に次のように答えている。

 「ぼくより国枝のほうが近い」と。

 実際に国枝選手はその年に男子車いすテニス史上初の年間グランドスラムを達成してみせた。

 国枝選手のラケットには「オレが最強だ!」と書かれたテープが貼ってあるという。その戦績は、まさに最強プレーヤーとしての記録だといえるだろう。

 国枝選手は、2015年終了時点の車いすテニスで、男子シングルス優勝20回、男子ダブルス優勝19回の偉業を達成。年間グランドスラムは、2007年を皮切りに計5回記録している。パラリンピックでも2004年のアテネ大会以降、男子シングルスとダブルスで3つの金メダル、2つの銅メダルを手中にしてみせた。

王座を去っても変わることのない意欲

 その最強伝説に陰りが見えたのは2016年のことだった。

 国枝選手の持ち味は、車いすを自在に、かつスピーディー操作するチェアワークだ。誰もが認める一流のチェアワークを生かし、理想のポジションに素早く到達する。そして、利き腕の右手を使い、バックハンドで強力なショットを放つ。

 ところが、そのバックハンドが右ひじの故障につながった。2006年からの約10年間、ほぼ譲ることがなかった世界ランキング1位の座から陥落することになったのである。

 しかし国枝選手にとって、故障も王座陥落も「ゲームセット」を意味しなかった。内視鏡手術を受けた後、2017年2月には練習を再開し、右ひじに負担をかけない新しいフォームの完成に取り組んだ。

「ショットの改造がうまくいくと、また新しいテニスが生まれる可能性がある。自分自身もそれがすごく楽しみなので、いち早く完成させたいんです」
(挑戦者 いま、この時を生きる。 ~パラアスリートたちの言魂~ フジテレビ PARA☆DO! 著より)。

 大量の汗にぬれたウエアを何度も取り換えながら、相手コートの両角を狙い、うなり声を上げ渾身(こんしん)のショットを放つ。そのような練習を、季節を問わず何時間も繰り返した。

 そして2018年には、全豪、全仏オープンで優勝。見事に復活を遂げた。

勝利の喜びを思い出し、それを挑戦の糧に

 病気による下半身まひのため、9歳から車いす生活を始めた少年が、世界の頂点に登り詰めるまでには想像を超える物語があったのだろう。

 その過酷なプロセスと同様に、国枝選手は王座陥落後も挑戦する意欲を失わなかった。それどころか、新たなプレースタイルを求め、ルーキーのようなひたむきさで再スタートを切ったことに心を動かされずにはいられない。

 ビジネス社会では多くの人がそれぞれの第一線で仕事に取り組んでいる。時には自信を失い、自分の能力やキャリアの限界を自ら決めてしまいそうになる場面もあるだろう。そんなときは自らの誇らしい実績を振り返り、そこに発奮材料を探してみるのもよいかもしれない。

 「一度、勝利の気持ち良さを知ってしまったら、またそれを求めてしまいますね」

 その言葉通り、良くない状況の下でも、「自分は最強だ!」と自らを鼓舞しながら次の勝利を求めて練習に打ち込み、2019年、見事に世界ランキング1位に返り咲いた国枝選手のように。

 

執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)

ライター。

【T】

あわせて読みたい記事

連載バックナンバー

アスリートに学ぶビジネス成功への軌跡