ビジネスWi-Fiで会社改造(第44回)
ビジネスWi-Fiで"学び"が進化する
約130年の歴史があるオリンピック夏季大会に加え、1924年から開催されている冬季大会も約1世紀の歴史がある。こうした長い歴史の中で、両大会への出場を果たした選手はすでに100数十人を数えるという。さらに両大会共にメダルを獲得した選手となると、わずか6人に絞られる。
この6人のうち夏季・冬季両オリンピックの金メダリストとして歴史に名を刻んだのはアメリカ人のエディー・イーガン(1897年4月~1967年6月)ただ1人である。
エディー・イーガンが1つ目の金メダルを獲得したのは、1920年に開催されたアントワープオリンピック(ベルギー)だ。彼は、ボクシングの男子ライトヘビー級で出場し、見事金メダルを獲得した。続く1924年のパリオリンピックにもヘビー級で参戦したが、惜しくも予選で敗退している。
エディーのキャリアをたどって見れば、パリオリンピックの後、人生の軸足をスポーツから学問の分野に移したのだろうと想像できる。彼は、イェール大学、ハーバード大学、さらには英国に留学してオックスフォード大学で法律を学び、弁護士をめざすのである。
弁護士として活動するエディーの元に思いもかけない1本の電話がかかってくる。1932年1月、アメリカで開催されるレークプラシッドオリンピックの開催が3週間後に迫っていた時期だった。
電話の主は、旧友のジェイ・オブライエンという人物。彼はオリンピック・ボブスレー委員会に所属していた。ジェイは電話で、冬季オリンピックに出場するタフな選手が1人足りないと話し始めた。ジェイとの会話を終え、電話を切ったエディーは妻に次のように伝えた。
「どうやら、今日からアメリカ代表ボブスレー・チームの一員になったようだ」
(夏冬両オリンピックでメダル獲得。スーパーアスリートたちの偉業に迫る 北京2022年オリンピック 公式サイトより)
まるで映画のワンシーンに使われるセリフのようではないか。また往年のハリウッドが映画化しそうなエピソードでもある。主役は、ケビン・コスナーが黒髪になったようなハンサムガイのエディー本人でもいいだろう。そしてボブスレーのそりに乗った経験がないにもかかわらず、4人目のメンバーとしてチームに参加したエディーは、まさに映画のように、オリンピックの晴れ舞台で自身2つ目の金メダルを獲得してみせ、開催国の母国アメリカに献上するのである。
冒頭で夏季・冬季共にメダルを獲得した選手が6人いると紹介した。エディー以外の5人の中に、もう1人、夏季大会でメダルを獲得した後、冬季大会のボブスレーでメダリストとなった選手がいる。ローリン・ウィリアムズ(アメリカ)だ。
彼女は陸上選手として、2004年に開催されたアテネオリンピックの100mで銀メダルを獲得。2012年のロンドンオリンピックでは4×100リレーで金メダルを獲得した。そして2014年のソチオリンピックではボブスレー(2人乗り)に出場し、銀メダルを獲得した。
スポーツジャーナリストの二宮清純さんのコラムに、他競技の選手がボブスレーで活躍できる要因が分かりやすく解説されている。
「ボブスレーは全長1.3~1.5キロのコースを最高時速約140キロで滑り降ります。重要なのはスタートから50メートルです。スタートでそりを全力で押し、いかにスピードを乗せてから乗り込むか。これが勝負の分かれ目になります」
(二宮清純コラム「ボブスレー代表は二刀流が当たり前。過去にはボクシング金メダリストも!」より)
なるほど。エディーのかの旧友ジェイも、エディーがボクシングで鍛えた腕力や脚力が全くジャンルの異なる競技のようにも見えるボブスレー競技に発揮できると判断し、オファーしたのだろう。さすがにオリンピック・ボブスレー委員会のメンバーだけのことはある見識だ。
ビジネスの分野でも彼のような視点は大切だろう。ある人材の強みが、意外なポジションでも生かせる可能性はあるのだから。例えば、優秀な営業スタッフに人材採用を担当してもらえば、自社の魅力や優位性を学生に対して効果的にアピールできるだろうし、また豊富な折衝経験を背景に、学生の資質や適性も的確に判断できるのではないだろうか。
1920年代から30年代を名門アイビーリーガーとして、スポーツ、勉強に熱中して過ごしたエディー・イーガン。しかし何不自由ない少年時代ではなかったようだ。コロラド州の貧しい家庭に生まれ、父は彼が1歳の時に鉄道事故で亡くなったのだという。彼の華やかな経歴は、彼が努力し、挑戦して勝ち取ったものだ。たとえ金メダリストにならなかったとしても尊敬に値する人物であり、満ち足りた人生を過ごしたのだろうと思う。
執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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