ビジネスWi-Fiで会社改造(第44回)
ビジネスWi-Fiで"学び"が進化する
浅田真央さんを巡る記憶を遡ってみれば、彼女が年齢の制限により冬季五輪への参加資格を得られなかったことをとても残念に思ったという記憶にたどりつく。今回、あらためて調べてみると、それは2006年にイタリアで開催されたトリノ五輪だった。
国際スケート連盟の規定では、参加資格を得るには開催前年の7月1日時点で15歳になっていなければならなかったが、1990年9月生まれの真央さんはわずか3カ月ほど足りずに参加がかなわなかったのだ。
すでに日本中が注目するスケーターであった真央さんの五輪参加を嘆願する声も高まっていた。でも真央さんにとっては、自分に参加資格がないということはもう何年も前から納得済みだったという。
「十歳くらいのころには、自分がトリノに出られないことはわかっていたんです。だから、小さいころから『バンクーバー・オリンピックに行く』ということが目標でした」
(浅田真央 私のスケート人生 浅田真央著)
5歳でフィギュアスケートを始めた真央さんは早くも10歳の頃には五輪出場を目指し、2010年に開催されるバンクーバー五輪を視野に捉えていたのだ。
浅田真央というスケーターを語るときに欠かせないのが、トリプルアクセルというジャンプの技だろう。ジャンプの中でも唯一前向きに踏み切り、空中で「3回転半」回る。踏み切り、高いジャンプ、回転、着氷のすべてがかみ合わないと成功しない最も難易度の高いジャンプである。
このトリプルアクセルを女子選手として初めて公式戦で成功させたのが伊藤みどり選手だった。10歳の頃から同じコーチの下で伊藤みどり選手と一緒に練習するようになった真央さんは、伊藤選手に憧れ、伊藤選手がトリプルアクセルを跳ぶ映像を何度も見て練習に取り組んだ。そして身に着けたトリプルアクセルを武器に国際大会で華々しい成果を挙げていく。
2005年に世界ジュニア選手権では女子選手として初めてトリプルアクセルを成功させ、同大会で初出場初優勝を飾っている。目標としていたバンクーバー五輪にも出場を果たすと、競技では女子史上初となるトリプルアクセル3回成功を達成し、見事に銀メダルを獲得するのだ。
その後も国内外の大会で華々しい活躍を続けた真央さんは、キャリアの集大成として2014年2月にロシアで開催されたソチ五輪に出場した。周囲も、そして真央さん自身も金メダル獲得に大きな手応えを感じながら臨んだ大会だった。
しかし個人戦の女子ショートプログラムで16位という結果に沈んでしまう。ショートプログラムの必須要素である3本のジャンプすべてでミスをし、そこから立て直せないままに演技を終了した。
もはやメダル獲得は望むべくもなかった。演技後、その結果の原因を尋ねるインタビューにぼうぜんとした表情で「分からない…」と答える様子が痛々しかった。それでも時間は止まってくれない。翌日にはフリー演技が待っているのだ。
真央さんは、フリー演技の曲にロシア出身の作曲家であるセルゲイ・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を選んだ。重たく、切ない、心の底に響くようなピアノの音色に合わせて真央さんは滑り始めた。その音色に昨日のミスで落ち込んだ彼女の気持ちを重ねた人も多かったかもしれない。しかし、最初にトリプルアクセルを決めると、華やかに盛り上がっていく曲に溶け込むかのように真央さんは全8回のジャンプを含む演技をまさに完璧なまでに滑り切ったのである。
ジャンプを大きな強みにアスリートとして成長した真央さんは、ジャンプのミスにより金メダルを逃したといえるのかもしれない。そのリスクは企業も無縁ではないと思える。武器は、ある意味でもろ刃の剣だといえるだろう。その武器によって事業を拡大した企業が、同じ分野で、同様の優位性を武器に台頭してきた他社によって地位を脅かされることもあるかもしれない。そのような状況でも、自社の強みを再確認し、その強みを育むために費やした企業努力や時間を再確認すれば、また勝機は見えるのではないだろうか。フリーの冒頭に見事にトリプルアクセルを決め、その自信で完璧な演技を実現させた真央さんのように。
真央さんのフリー演技を現地の実況は「今夜、物語の主人公は昨夜の首位キム・ヨナから16位の浅田へと変わりました」とたたえた。金メダルは逃したが、世界中の観客を熱くした素晴らしい演技だった。ラフマニノフは、あの日の真央さんのために「ピアノ協奏曲第2番」を作曲したのだろうかとさえ思えてくるのだ
執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
【T】
アスリートに学ぶビジネス成功への軌跡