ビジネスWi-Fiで会社改造(第44回)
ビジネスWi-Fiで"学び"が進化する
島田商店(工業薬品の製造・販売)
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第10回は、東京・墨田区で主に環境保護関連の工業薬品を製造・販売する島田商店。78歳の嶋田喜行会長と、2015年に事業承継を受けた長男の嶋田淳(じゅん)社長に話を聞いた。
島田商店は、1928年に嶋田会長の父・嶋田藤一氏が現在の東京・墨田区で創業した。染料や塗料、工業薬品を取り扱う会社で修業し、薬種商販売の資格を持っていた先代の藤一氏は、個人事業として主に皮革製品に使う塗料の販売や着色の事業からスタート。その後、47年に有限会社、67年に株式会社化している。
塩素をはじめとする工業薬品、塗料、染料を販売する島田商店は、現在、墨田区に2つの工場を持つ
大学を卒業し、薬剤師の資格を取得した嶋田会長が島田商店に入社したのは1963年。創業者の父親は堅実な経営を続けており、当時の島田商店は親族を含め従業員が6~7人、売り上げは2~3億円ほどの規模だった。
これに対し、嶋田会長は「変化を恐れ、保守的な父の姿勢が不満だった」という。37歳で社長になってからは、会社の成長拡大へと歩みを進めた。
「顧客を回り、足を使って稼がなければ企業は大きくならない。100年以上続く老舗企業も、現状にあぐらをかいているわけではなく、常に挑戦しているから続いている。どうしたら会社を大きくできるのかと悩み、異業種交流会に参加して他の会社がどのように伸びているのかを勉強しました」(嶋田会長)
嶋田喜行(しまだ・よしゆき)会長
1941年生まれ。63年、東京薬科大学を卒業後、父が創業した島田商店に入社。78年に代表取締役社長に就任。2015年に息子の淳氏に事業承継し、同社会長となる
さまざまなヒントを得た嶋田会長は、人々が安全な環境で安心して過ごせる社会にするため、環境問題に関連する事業を展開できないかと思い付いた。売り上げのシェアはまだ少なかったものの、創業当時から工業薬品を扱っていたことから、水質の改善ならすぐに着手できそうだと考えた。そこで始めたのが水をきれいにする殺菌剤(塩素)の取り扱いだ。
この事業が当たった。浄水場や下水処理場など官公庁の入札から始まり、最近ではフィットネスクラブやスーパー銭湯など民間企業の需要が増えている。
嶋田会長は娘2人、息子1人に恵まれた。3人姉弟の末っ子として生まれた長男の淳社長は、嶋田会長にとって「待望の男の子だった」という。「子どもの頃は直接本人に伝えたことはなかったが、内心では会社を継がせるつもりで育てた」と話す。
淳社長は小学校受験をして東京・文京区にある名門校、筑波大学付属小学校に進学。しかし、淳社長は勉強ではなくサッカーにのめり込む。
「子どもの頃はサッカー選手になりたいと考えていました。私自身ほとんど勉強はしなかったけれど、優秀な学校だったために勘違いして、どうせ社長になるなら小さな家業の商店ではなく、大企業の社長になってやる、などと思っていました」(淳社長)
淳社長は日本の大学を卒業後、MBAを取得するため米国のニューヨーク市立大学に進学する。
「世界ナンバー1の国に行ってみたかった。同級生には社員2000人を抱える企業の社長ジュニアをはじめ、5~6人規模の企業の社長ジュニアまでいろいろな人がいた。国籍も文化も違い、日本で当たり前のことが世界では当たり前ではないことを知ったのが、一番の学びだった」と淳社長は振り返る。
ところが、留学3年目の2001年9月11日。ニューヨークを同時多発テロ事件が襲う。淳社長は道半ばでの帰国を余儀なくされた。
帰国後、淳社長は自然な流れで島田商店に入社する。
「そのとき、就職先の選択肢にはいろいろなアイデアがありました。その中で直接的な学びにならない異業種を選択肢から外し、同業の取引先に修業に行く案が有力で、紹介もしてもらいました。しかし、同じ業種の会社で働くと、そこの十字架を背負うことになります。お世話になった会社を裏切れないために、自由に仕事ができなくなるのではないか。その会社との取引を常に意識しながらしか会社は成長していけない。だったら、父親が経営する会社で修業したほうがいい、というのが父も含め関係者全員が最終的に出した結論でした」(淳社長)
最初の配属は配送部。一社員としてトラックを運転し、大事な商品を取引先まで運んだ。嶋田会長には「従業員の気持ちが分かる経営者になるため、基礎から始めるべきだろう」との考えがあった。
淳社長が子どもの頃は、事業の約95%が塗料だったため、家業のイメージは「塗料販売業」だったという。しかし、サッカーに夢中になったり、米国に留学したりしている間に、殺菌剤の事業が急伸。「入社してみたら塗料販売業ではなく、薬品会社だった」と淳社長は苦笑する。淳社長が子どもの頃から工場で働いていた社員が専務や工場長になっており、帰国後の淳社長を温かく迎え入れてくれたという。
配送から製造、営業などを経て、数年後に取締役となった淳社長は新商品開発にのめり込む。「島田商店がメインで扱う殺菌消毒剤は、お風呂の浴槽洗剤から哺乳瓶の殺菌、台所用洗剤など多方面に応用できる。どの分野にまだ開拓の余地があるかを検討し新商品を提案していくのは楽しかった」と淳社長は話す。
メインで扱うのは水質を改善させる塩素。成分を薄めたり分量を調整したりすることで、現在ではフィットネスクラブなどの新たな得意先も開拓した
水の脱臭に使われる「活性炭」事業の開始、入札自治体の拡大、そして土壌汚染分野にも進出し、豊洲市場の土壌洗浄にも携わった。こうして島田商店が成長の一途をたどるのと同時に、70歳を過ぎた島田会長は自身の進退を考えるようになった。
淳社長が次々に新商品を開発していく一方で、嶋田会長は「新しいアイデアが浮かばなくなった」と感じるようになっていた。
「時代の流れが読めなくなったときに、もう私の時代ではないなと思いました。新しい力、新しい考えを取り入れていかなければ、会社は伸びていきません」(嶋田会長)
2015年、嶋田会長は74歳で承継を決意し、38歳の淳社長が代表取締役社長に就任した。社長は譲ったが、嶋田会長の健康状態が良好だったため、顧問税理士からは「時間をかけて承継したほうが対外的な印象がよくなる」とアドバイスされたという。
そこで、3年間は代表権を持ち、銀行対応など数字の管理はすべて嶋田会長が担った。
「事業拡大で従業員数が増えるのと同時に、働き方改革の要請も高まってきた時期。父が数字を管理してくれたおかげで、その期間にこれまで家族経営で整っていなかったような評価基準の設定や就労規則の改定などの組織づくりに集中することができた」と淳社長は話す。
2018年に嶋田会長は代表権を外れ、今は週に3日程度会社に顔を出しているという。
「経営は完全に息子に任せているし、よくやっていると評価しています。私の時代より会社は大きくなっているので、努力もしているのでしょう。ただ、社員はみんな家族のようなものだから、ちゃんと元気で働いているか気になるんです。会社に行き工場をグルッと回って社員の顔を見ると安心します」(嶋田会長)
現在の従業員は約50人。「私の知らない社員も増えた」と少し寂しそうに話す嶋田会長だが、「月に一度、社内新聞で2名の社員の紹介がある。趣味や好きなもの、初めてのアルバイトなど、いろいろな情報が載っていて、あの社員にはこんな趣味があったのか、新たにこんな社員が入ったのかと、毎月楽しみに読んでいる」という。
「従業員が増えても、ワンファミリーの精神を忘れず、社員たちにはみんなで仲良くしてもらいたい。その中で、慣れ合いではなく切磋琢磨(せっさたくま)し、一人ひとりが自分で考え行動できるような組織づくりを社長には期待したい」(嶋田会長)
経営を任された淳社長の今後の目標は、女性が活躍できる会社にすることだ。力仕事も多く男性社会の業界で、今はまだ8人しか女性はいないが、これから活躍できる場を増やしていきたいと考えている。「働き方改革も女性活躍推進も、中小企業だからできないのではなく、先陣を切って大企業に負けないような強い組織づくりに挑戦したい」と淳社長は意欲を燃やす。
父・嶋田会長(左)と、息子の淳社長。「引退して肩の荷が下りた。女房と国内外を旅行するのが今の楽しみ」(嶋田会長)。「会長になってから、父は穏やかになった」(淳社長)
子どもの頃は家業を継ぐ気のなかった淳社長だが、実際に社長となった今の心境について、「中小企業は組織ができ上がっていないケースがほとんど。少し動くだけでドンドン形を変えていけるので、こんなに楽しい仕事はないと感じている」と語る。
一方で、自身の息子に会社を承継することには消極的だ。
「私は子どもの頃から、苦労している父の姿を見てきました。小学校の同級生の親は東京の一等地に住み、ビシッとスーツを着て歩いているのに、父の服は塩素で穴が開いていたり、ペンキが付いていたりした。それを知っているから、私の中で“なにくそ”という精神が育ったのだと思います。毎日きれいなスーツを着ている私を見て育っている子どもたちに同じ精神を持てというのは難しいでしょう。最も大事なのは、社員の生活を守ることです。この先どのように子どもたちが育つかは分かりませんが、会社にとって無能な息子が社長になることほど不幸なことはありません。だから、私自身は世襲にはこだわっていません」(淳社長)
2020年1月度決算の売り上げ予測は、グループ全体で50億円超。現在着工中の第3工場は500坪の広さがあり、20年2月に完成予定だという。より多くの原料の保管ができるようになるため仕入れ原価が下げられ、製造効率も飛躍的に上がり利益率の向上が見込める。
執筆=尾越 まり恵
同志社大学文学部を卒業後、9年間リクルートメディアコミュニケーションズ(現:リクルートコミュニケーションズ)に勤務。2011年に退職、フリーに。現在、日経BP日経トップリーダー編集部委嘱ライター。
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「事業承継」社長の英断と引き際