ビジネスWi-Fiで会社改造(第44回)
ビジネスWi-Fiで"学び"が進化する
近年、CSR(企業の社会的責任)の重要性が叫ばれるようになっています。しかし、CSRという言葉がまだなかった明治時代、社会における企業の責任に深く取り組んだ企業人がいました。住友(現・住友グループ)の第二代総理事を務めた伊庭貞剛(いば ていごう)です。貞剛は住友が所有していた別子銅山(べっしどうざん)の公害問題に正面から取り組み、「企業の社会的責任の先駆者」といわれるようになりました。
貞剛は1847年、近江国(現・滋賀県)で生まれました。父の正人は幕府の役人。母の田鶴(たづ)は住友初代総理事・広瀬宰平の実姉で、宰平から見ると貞剛はおいに当たります。維新を経て明治の世になると、貞剛は法曹の世界に入り、函館裁判所副判事、大阪上等裁判所判事などの要職を歴任しました。しかし、媚びへつらいが横行する官職に失望。故郷の近江に帰って村長になることを考えたといわれます。
そんなときに、叔父の宰平から住友で働くことを勧められます。貞剛は32歳、裁判官時代の半分以下の月給での再スタートでした。貞剛は、住友に入社後、さまざまな方面で才覚を発揮します。入社3カ月後には、住友大阪本店の支配人に就任。翌年の1880年には、連載第1回で取り上げた五代友厚、山本達雄(のちの日銀第五代総裁)らと共に大阪商業講習所(現・大阪市立大学)の開校に尽力し、1882年には同所の所長(校長)に就任しました。大阪紡績(現・東洋紡)や大阪商船(現・商船三井)の設立にも参画するなど、大阪を起点として新時代を迎えた日本の発展に力を尽くします。
そうした中、住友から辞令を受けたのが、支配人としての別子銅山への赴任でした。愛媛県東部、新居浜の山麓部にある別子銅山は、元禄時代の1691年に開坑した長い歴史を持つ銅山です。銅の年間産出量は1500トンにも及び、世界有数の銅山として知られていました。別子銅山で産出された銅は海外貿易の決済に使われ、幕府の財政を支えました。明治期に入ると送電線や電話線用の銅の需要が欧米を中心に高まり、精銅は日本の重要な産業の1つとなりました。
しかし、生産量の増加とともに別子では深刻な問題が生じていました。公害です。別子周辺の山林は銅の精錬に使う燃料を供給するために伐採され、荒れ果てていました。また、新居浜にある製錬所から排出される亜硫酸ガスが煙害となり、農作物に深刻な被害を与えていました。1893年には煙害の根絶を求めて農民が激しい抵抗運動を繰り広げる事態となり、銅山と精錬所を運営する住友は対応を迫られていました。そこに支配人として派遣されたのが貞剛だったのです。
実は、貞剛の叔父の広瀬宰平は11歳で別子銅山勘定場の給仕となり、住友への奉公を始めた人物。1866年には別子銅山の支配人となり、銅山の近代化を進めました。叔父が発展させた銅山の運営を、おいの貞剛が継いだことになります。
1894年に新居浜に赴任した貞剛がまず手を着けたのは、荒れ果てた別子の山の復興でした。「別子の山を元の青々とした姿にして、これを大自然に還さねばならない」として、専門の技術者を招き森林計画を作成。それまで毎年6万本に満たなかった植林本数を、毎年100万本台まで増やします。
現代では、事業の持続可能性が経営の重要な課題となっています。「山を元に戻さなければ事業を続けることはできない」として植林に力を入れた貞剛は、事業の持続可能性をいち早く考えていた企業人でした。また、農民とも積極的にコミュニケーションを取り、地元の不信感を解いていきました。
さらに煙害対策のために、新居浜にあった精錬所を20キロ沖にある四阪島(しさかじま)に移転することを決定します。四阪島は、当時、瀬戸内海に浮かぶ無人島でした。そこなら、発生した亜硫酸ガスは瀬戸内海上で拡散され、煙害が発生することはないと貞剛は考えたのです。無人島で精錬所を稼働させるには、港や道路などのインフラから整備しなければなりません。予算は、当時の別子銅山の2年分の純利益に相当する約170万円。煙害根絶への貞剛の強い思いが感じられます。
ただ、貞剛の思いとは裏腹にこの対策では煙害はなくなりませんでした。拡散すると思われた亜硫酸ガスが、風に乗って四国本土まで流れてきてしまったのです。その後、1899年に貞剛は新居浜を離れますが、跡を継いだ支配人が思いを引き継ぎ、煙害対策に取り組み続けます。
1910年には、亜硫酸ガスの排出を抑制するための契約を農民との間に締結。また、原料中の硫黄分を減少させるなど、煙害克服に向けたさまざまな技術改良に着手しました。これらの対策により、四阪島の製錬所から排出される硫黄量は半分にまで減少しました。さらに1939年には、亜硫酸ガスをアンモニア水で中和して回収する中和工場が完成。これにより亜硫酸ガスがまったく発生しなくなりました。
貞剛は1900年に住友総理事に就任しますが、1904年には早くも引退します。「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくして、老人の跋扈(ばっこ)である」と述べています。残念ながら、貞剛は1926年に没しており、中和工場の完成による別子銅山問題の解決を目にすることはありませんでした。
貞剛は「住友の事業は、住友自身を利すると共に国家を利し、かつ社会を利する底の事業でなければならない」と言っていました。社会における企業の責任を認識した上での言葉です。
別子銅山の公害問題と同じ時期に発生していた足尾銅山の鉱毒事件を激しく糾弾していた田中正造は、貞剛を「社会の道理、人情を知っている者で、己が金を儲けさえすればいいものだというような間違った考えを持たない」と評していました。これも、社会に対して責任を取ろうとする貞剛の姿勢をくんでの言葉といっていいでしょう。
地球温暖化対策に代表されるようにCSRへの取り組みは、ますます重要な経営課題になっていくでしょう。富国強兵が重要視された明治期に企業の社会的責任について深く考え、取り組んだ貞剛の存在が私たちを叱咤(しった)し、励ましているように感じられます。
【T】
偉大な先人に学ぶ日本ビジネス道